2008年10月アーカイブ

野球

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私は熱狂的ではないが阪神ファンである。阪神がサヨナラ勝ちしようものならチップと言って1,000円くれる親父がいるような家庭環境に育てばそうなるのも当然と言えよう。しかし、そんな家庭環境に育ちながらも長兄だけは読売ファンだった。と言っても彼は長嶋茂雄ファンだったようだが。


1985年、21年ぶりに阪神が優勝した日を思い出す。私はダイニングのTVの前で中西清起投手がピッチャーゴロを捕った瞬間、大喜び・大騒ぎしたのだが、リビングのTVの前にいた親父は声も出さず身動きもしない。しばらくしてゆっくり立ち上がった親父はサイドボードの中に飾ってあった一番高価なブランデーを開けゆっくりと口に含んだ。頬にはゆっくりと伝い落ちる一筋の涙。


私は小学校の頃からサッカーをやっていた。草野球の試合に誘われたのは大学生になってからで、19歳の誕生日に彼女のお母さんにグローブをプレゼントしてもらったくらい野球とは縁遠かった。できるポジションを聞かれたときにはどこもやったことが無いので、ピッチャーと答えピッチャーをさせてもらったが、それはひどいものだった。試合前にバッティングセンターに行ったり、暇を見つけてはキャッチボールをして何とかなるようになったが、今では10mも投げれば肩に激痛が走るほど野球未経験者の体に戻ってしまった。


高校野球は甲子園球場を満員にできるほど人気が高い。社会人野球は各企業のチアリーダーの応援が華やかで都市対抗野球大会も大いに盛り上がる。しかしその間にある大学野球はいまひとつ盛り上がりに欠ける。現在の東京六大学は祐ちゃんブームもありかなり人気があるようだが、私の学生時代の関西学生野球は平日の昼間によく試合が行われていたこともあり悲惨なものだった。
私の親友にエース、代打の切り札がいたため彼らの応援に日生球場・皇子山球場・西京極球場によく行った。春の陽気の中で行われる試合の日、スタンドで横になって寝ているじいさんと「にいちゃん、どことどこの試合?」「関関戦やで。」「ふ~ん。で、関関戦てどことどこ?」「関学と関大。」「ふ~ん。関大言うくらいやから、大学の試合やねんな。」というナイスな会話をしていると試合前の練習をしている彼らが私を見つける。これは大変容易いこと。スタンドの観客より両チームの選手の数の方が多いくらいなのである。私を見つけた彼らは私に向かってハンドルを回す仕草をする。私が肯くと次は拝むポーズ。帰りは彼らに試合の感想を聞きながら車に乗せて帰ることになるのである。
因みにその時代の関西学生野球には古田敦也、杉浦正則、長谷川滋利、酒井光次郎等の名選手がいたが、その存在は大変地味であった。


私が大学3回生の時に大物新人が入学してきた。練習を見ているだけでも走攻守とも他の選手とレベルが違うことは素人の私の目にも明らかだった。草野球を始めたばかりの私が無謀にも彼にバッティングを教えてくれるよう頼むと彼は嫌な顔をせず「相手投手の一番早い玉が内角高めにくることを想定して構え、それでも外角低めにスライダーがきてもとらえられるよう下半身にタメを作って・・・。」と一所懸命身振り手振り教えてくれる。草野球を始めたばかりのド素人の私には全く役立たなかったが・・・。その私のバッティングコーチは現役メジャーリーガー田口壮選手である。


それから数年経って私が東京へ出張した際、新幹線を降りると同じブレザーを着た大男の集団がいた。その中に阪神からオリックスへ移籍した岡田彰布選手の姿を見つけた調子者の私は「岡田さんがオリックスへ移籍されたので私も阪神ファンからオリックスファンになったのですよ。」と声を掛け握手をしてもらった。さらに「私は田口君と同じ大学で彼の2学年上なのですが、田口君は同じ新幹線じゃないのですか?」と聞くと岡田選手は「同じ新幹線だったからもうすぐ来るはず。」と言って階段の下で一緒に田口選手が来るのを待ってくれた。「ほら来た。」と言って田口選手の姿を確認してから出口へ向かって行った岡田選手の優しさに感動した。
階段を降りてきた田口選手は私のことを覚えていてくれて出口までのしばらくの間元エースや元代打の切り札の近況などを話しながら一緒に歩いた。「千葉マリンスタジアムでの試合なんでこちらからみんなと一緒に出ます。」「じゃ、頑張って優勝してな!」と言って別れようとした時、田口選手の横をずっと歩いていた男に初めて目が行った。よく見るとそれはイチロー選手だった。「おい、イチローやないか!」という私に彼は涼しい顔で「そうですよ。じゃ、出口こっちなんで。」「おい、お前は毎日一緒かもしれんけど・・・。」私はしばらくイチロー選手とも並んで歩いてたのか・・・。田口選手はニッコリ笑ってバスへ向かった。


あれから10数年が経った。田口選手もイチロー選手も現役メジャーリーガー。
私はシンガポールに住んでいる元代打の切り札が帰国する度に元エースと一緒に飲んでいる。彼らと野球の話をすることはほとんどない。次の機会には野球の話でもしてみるか・・・。


岡田監督退任の報に触れ野球のことを色々思い出してみた。

ある会社が不祥事を起こし、その会社の役員に対して被害者の弁護人が質問を行った。
その会社は金融機関であり、その不祥事の内容というのは預金者の積立の記録を無くしたり改ざんし、また運用をずさんに行った上、社員の遊興費等に充てたりしていた等とんでもないもの。

「不正を行った社員を告発しないのか?」
「証拠が無いのでできない。」(担当役員)
「いつまでに正しい記録に戻す作業を終えるのか?」
「初めて行う作業なので分からない。」(担当役員)
「代表取締役からいつまでに行えと指示を出さないのか?」
「担当役員に任せている。」(代表取締役)
「現在行っている方法には様々な欠陥があると思うが、どう考えている?」
「私が就任するよりずっと以前から行われてきたことの尻拭いを一所懸命やっているじゃないか!」(担当役員)
「代表取締役はどう考える?」
「長い間悪事を働き続けた上、担当者も退職したり子会社等に転籍したり、担当役員も代表取締役もその間コロコロ代わったのでそんなに簡単にいくはずがない!」(代表取締役)

何故かこんなやりとりが頭に浮かんだ。
何故だろう、何故だろう・・・。

先日お伝えしました通り弊社は創業60周年を迎えました。その間印刷前工程は活版からコンピュータへ。印刷機も活版印刷機からオフセット印刷機、そのオフセット印刷機も最新の機械への更新も行ってきました。しかしこの間変わらず印刷に使用してきたものの中に当然ですが紙があります。
その紙がどのようにして作られているかは何となくは知っていましたが、一昨日初めて静岡県にある製紙工場を訪れ、実際に紙作りの工程を見てきました。
これは工場見学が目的ではなく、今回特注で作ってもらうことになった万年筆の筆記に適した紙のテスト抄造に立ち会うためです。印刷業界で言うと出張校正にあたるものですね。

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歴史を感じさせる正門。
工場内に入るにはヘルメットを装着。ヘルメットの中に髪の毛が落ちないようにネットを被りました。

残念ながら工場内の撮影は許されませんでしたが、私より少し年上の抄造機の迫力に圧倒されました。特殊紙を専門とするその機械は抄造機の中では極めて小規模のものだそうですが、それでも日産量は15t。大きいものだと1,000tくらいだそうですから確かに小さな機械です。でも15tですから紙を特注するということがいかに大変なことであるかあらためて思い知らされました。

抄造機は豪快な動きをしますが、紙の出来映えは大変細かい要素に左右されます。広葉樹パルプ・針葉樹パルプ・非木材系パルプの配合割合、表面に塗工(化粧)するものの選択、抄造時のローラー圧力等により紙の風合は大きく変わります。

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できたての紙に万年筆で書いて書き味を試したり、インクのにじみ具合を確認したりして感想・要望を伝えます。30分程すると少し味付けの違った紙が出てきて、それに対しても同じように意見交換を行いました。
結局原材料を少し変えなくてはならないことになり、(原材料を変えるということは機械全体から一度原材料を全て抜き取らなくてはなりませんので、大変時間が掛かります)今回は残念ながらOKを出すところまでには至りませんでしたが、紙造りの職人達が本気になってくれましたので大いに手応えを感じました。

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どんな紙が出来上がるかお楽しみに!
そろそろ紙の名前を考えなくてはなりません。特注ですから命名もさせてもらえるのです。

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