実は

ご縁をいただきお二人の引き出物の製作をさせていただきました。
上方役者の六代目片岡愛之助さんは、やはり上方への思いが強く、以前ご友人を介して我々のノート作りの技術や思いを知っていただき、上方の職人たちのこだわりに感動してくださいました。
そしてこの度松嶋屋の裃の色、定紋である追いかけ五枚銀杏、愛と藍染めをかけることをテーマにとご注文をいただき、当社スタッフと協力会社の方々の技術と知恵を絞り、ノートを作らせていただいたのです。
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の中に、
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このように追いかけ五枚銀杏の定紋を抜き藍染めした紙に包まれたノートは、
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松嶋屋の裃の色をモチーフとした表紙で、
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サイズは神戸派計画のStyleシリーズの210mm×120mmで、本文はCIROシリーズの白い罫線を採用しました。
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中にこの1枚を挟みました。
「このノートには職人のこだわりが随所にちりばめられています。
表紙には合紙(ごうし)という手法を用い、二色の紙を手作業にて貼り合わせ一枚の紙のように仕上げています。二色の紙は裃の色をイメージし、質感の良いものを選択しました。製本は通常の糸かがり製本よりも人の手による工程が多い方法で、徹底的に使いやすい開きの良さにこだわりました。また、ノートを包む紙には藍染めの技法を用い、六代目片岡愛之助様の定紋を印刷した後、藍染めをすることにより その『追いかけ五枚銀杏紋』を自然な風合いに浮かび上がらせることに成功しました。
愛之助様、紀香様のお二人のご縁にちなみ、二枚を張り合わせ一つにすること、そして、藍(=愛)に染めて包むことに 職人の想いを込めさせていただきました。神戸派計画」

進・退

今日は弊社創業者である祖父の命日。
28年が経った。
祖父は機械工学に明るい人だったので、創業当初資金繰りが苦しい時でもお構いなく高額の西ドイツ製印刷機にこだわり続けたらしい。
その後も新しい機械を勝手に契約してくる祖父に親父は困り果てたと何度も言っていた。
しかしそのお陰で機械更新頻度が低く済み、結果的には設備投資額が抑えられることになったことも事実。
祖父が選んだ機械は今でも元気に動いている。
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その機械の隣にある同じメーカーの最新式の印刷機を祖父はどんな想いで見るのだろう。
オートプレート・CTP・CIP4…。
便利な機能、新しい技術が人を助けていることは間違いないが、人の技術の劣化にも手を貸してはいないだろうか。
もしそうだとしてもそれは決して機械の進歩に責任がある訳ではないが。
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十年

初めて大連に来たのは2006年の4月。
ちょうど10年前。
今では近代的な高層ビルの数が飛躍的に増え、地下鉄まで走るようになった。
この国の人たちのマナーの悪さが少しずつ改善されていることを感じながら、日本人のマナーの良さが少しずつ劣化していることに思いを馳せると、教育こそが明るい未来を創る最も重要なものであることを再認識させられる。
それは学校だけでなく、大人が社会全体で取り組むべきものであると、とんでもないクズ人間だった私が言う。
今はただのクズ人間の私が言う。
ちょっと酔ってるな。
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今の大連メンバーのほぼ半数は10年前から一緒に仕事をしている仲間。
結婚してたりそうでなかったり、離婚してたりそうでなかったり、再婚してたりそうでなかったり、出産してたりそうでなかったり。
多くの人生と絡み合いながら立体的な月日を重ねてこれたことにあらためて感激している。
10年、とんでもなく長いあっという間の濃い10年だった。
これからの10年もそうであれ!
かかって来い!

本を編む

武庫川女子大学では今年度より「本を編む」という科目が開講されています。
これは3年後に迎える学院の創立80周年に向けて、記念誌の別冊を学生たちの手により刊行することを目的とした授業です。
この授業では作家・記者・編集者・書店の方々などをほぼ毎回次々にゲストとして招き、その方の話を聞いた後、学生が記者役になり記者会見風に質疑応答し、学生が主体的に情報を集め、技術を習得し、取材・編集・制作を経て冊子にまとめあげることを目的として取り組んでいます。
とても画期的な授業だと思いませんか?
一昨日のその授業で私が印刷・製本について話をする機会を得ました。
この私が大学で講義のようなことをさせていただいたのです。
このことを私の中学・高校時代の恩師が知ったら笑うだろうなぁ・・・。
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約30分間、駆け足で印刷・製本の流れを説明した後、学生からの質問を受けて授業が進みました。
私が話している間もとても熱心にメモを取り続け、その後は次から次へと質問が飛んできました。
昼食後の最も眠い時間帯とは思えない熱い90分間を、私が最も楽しませてもらったかもしれません。
一緒に授業に出て質問を受けた武庫川女子大学卒社会人2年目の弊社社員の成長ぶりも嬉しかったです。
彼女たちが立派な社会人になることを確信しています。
みんな印刷業界に進んでくれないかなぁ・・・。
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担当の先生の許可をいただいてblogに書かせていただきました。

今からも?

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あれから干支が一回りした。
あの日も今日みたいに晴れて暑い日だったことを覚えている。
5歳違いの兄貴より6つ半上になったけど、どういう訳か常に5つ上にいる感じがする。
12年前、みずおかさん俊一さんが参議院議員選挙に立候補された。
みずおかさんには立候補の前から兄弟揃って親しくしていただいていたので、兄貴も後援会活動等熱心に応援していた。
ところが投票日約2ヶ月前に兄貴が突然逝ってしまった。
急に社業の責務が重くなった私を気遣い、みずおかさんは後援会の兄貴の役職について私に引き継がなくてもいいとおっしゃってくださった。
しかし私自身もみずおかさんを応援したい気持ちが強く、兄貴の分も引き続き応援させていただくことにした。
当選後すぐに線香をあげにきてくださったみずおかさんのことを私は勝手に同期だと思っている。
みずおかさんの参議院議員としての12年と私の代表取締役としての12年。
今年みずおかさんの3回目の選挙がある。
現在のところかなり苦戦している状況なので、私も全力で応援する。
国政の場で奮闘されているみずおかさんの姿に励まされ、社業・業界の発展に力を注ぐことができている私は、みずおかさんをどうしても国政の場に送らなければならないのだ。
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とても濃密な12年間だった。
兄貴とは公私に渡り仲が良かったが、この12年の間にどうなっていたか分からない。
もしかしたら事業の方向や経営の方針でもめていたかもしれない。
命日に発売されたこの雑誌を兄貴はあの世からどんな気持ちで読んでいるのだろう。

浮気

私は今まで浮気をしませんでした。
ごめんなさい。
東京出張中にほんの出来心で・・・。
でも本当に愛してしまったのです。
3月9日から日本橋三越本店での万年筆祭りに出店していたときのこと、私たちの目の前のブースに彼女がいました。
そして彼女のことを褒めちぎる2人の男性もいました。
枻出版社『趣味の文具箱』の清水編集長と日興エボナイト製造所の遠藤社長の2人です。
彼らは彼女を手に入れない奴は馬鹿だと言わんばかりに彼女を絶賛するのです。
そのとき私は神戸へ帰る時間にもしまだ彼女がいたら告白し、神戸へ連れて帰ろうと決心していました。
そしてとうとうその時間、3月11日16時になりました。
おそるおそる向かいのブースに行くと彼女は私を待つように佇んでいました。
私に躊躇などあるはずもなく、彼女を抱き寄せ神戸へ一緒に帰ろうと告げました。
彼女は拒むことなく私に身を寄せました。
今は常に私の傍で私を見守ってくれています。
彼女の名は「天女」です。
  
  
私は今まで万年筆を神戸のPen and message.さんとナガサワ文具センターさんでしか買ったことがありません。
でも今回浮気してしまい、東京で買ってきてしまいました。
許してください、神戸の万年筆関係の皆様。
どうしても彼女の魅力に抗えなかったのです。
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エボナイト、いいっすよ!

今日は親父の命日。
あれから7年。
昨年には愛妻がそっちへ行ったから喜んでることだろう。
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死んだらどうなるんだろうと思ってたけど、今年の初夢で謎が解けた。
おふくろ曰く
「痛さも辛さも、怖さも悲しさも、腹立たしさも情けなさも感じなくなってよかった。でも楽しさも美味しさも、嬉しさもありがたさも感じなくなった。間違いなく生きてる方が幸せ。」
ということ。
そりゃそうやな、マイナスから逃れてプラスだけ手に入れることはないわな。
生きてる価値をあらためて教わった。
夢やけど。
言わぬが花、負けるが勝ち、過ぎたるは及ばざるが如し、短気は損気・・・。
知ってる。
でも違うものはやっぱり違うから認める訳にはいかない、という頑固さは親父に似てきたようだ。
それで一時的に損することがあっても長期的に考えればいいんだと思う。
違うものは違うと言い続けるから冤罪に巻き込まれることもないだろうし。
もちろん自分の誤りを認めた場合はすぐに謝ることもできる。
末っ子なので。
俺も昭和42年生まれ、俺も寂しい、でも俺は大丈夫。
何のこと書いてるか来年分かるだろうか?
7年前、俺が一人三宮でフラフラ飲んでる時に親父は逝ってしまった。
今日もフラフラ飲むとするか。

2016スタート(restart)

代表取締役に就任して11年が過ぎました。
その間に新会社を作って中国に現地法人を立ち上げたり、当社にとっては大規模な設備の更新を行ったり、世代交代を推し進め新しい事業に着手したりとそれなりにやってきたと思っています。
そのようにできたのも突然の代表取締役就任後、今日まで自社のことのみを考えていればいい状況にあったからです。
しかしながら私も人生の後半にあり、後継者を得たことでもありますので、そろそろ業界全体の発展に寄与したいと思うようになりました。
今まで私を育ててくれた業界を魅力的なものにし、その将来を明るいものにするためにまずは兵庫県印刷工業組合に再加入し活動に力を尽くしたいと考えています。
またモノ作りへのこだわりや強い向上心を持つ若者を育てるために、キャリア教育に尽力したいとも考えています。
少しでも広くお役に立とうと思い始めたのです。
私がこんなことを考えるなんて・・・。
はい、あなたと同じくらい私自身が不思議に思っています。
でも私もあと20年くらいはこの業界で食っていこうと思っていますので、業界の発展は不可欠なのです。
って結局自分のことを考えているところが私らしいですね。
Mastery for Service
まだまだだな・・・。
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2015年最終日に

今年も本当に色々ありました。
これがなきゃダメとかこれがあっちゃダメと思いながら新年を迎えるわけではありませんが、それにしても今年も本当に色々ありました。
皆さんにとってこの一年はいかがだったでしょうか?
今年3名の社員が当社を卒業し、新しい環境へ旅立って行きました。
別れでした。
今年7名の社員を当社に迎えることができました。
出会いでした。
正直な気持ちを言うと7回の出会いの喜びより3回の別れの悲しさの方が大きいのです。
でも別れの悲しみを恐れて出会いを拒むことは決してしません。
今年はおふくろとの別れがありました。
辛く悲しいものでした。
今でも心が傷ついていることを感じます。
そんな時私を家族のように思っていると言ってくれる社員、そのように接してくれる社員たちに救われました。
感謝しかありません。
私を必要としてくれる人がいる限り、私は立ち続けることができます。
必要とされる人間であり続けられるように努力したいと思います。
来年も当社は「親切」を掲げて歩んでいきます。
来年も私は「是々非々」を掲げて歩んでいきます。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。
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完璧

おふくろが死んで3ヶ月以上が経つ。
山本はるみは昭和11(1936)年2月19日に兵庫県加東郡社町に生まれた。
神戸から疎開してきた武部誠一と同級生になった。
誠一は中学卒業前にクラスの女子生徒全員に手紙を書いた。
返事を書いた二人のうちの一人がはるみだった。
中学を卒業した誠一は社高校から立命館大学に進み、卒業後大和出版印刷株式会社に就職した。
一方、はるみは中学卒業後看護学校へ進み神戸市立中央市民病院で看護婦として勤務した。
その頃の患者さん家族と今でも交流があるのだから、きっと献身的に看護する人だったのだろう。
結婚を機に退職し神戸市灘区で3男をもうける。
「俺の前に流産したことがあるらしい。子供は3人までと決めていたらしいから、その子が生まれていたらお前は生まれてなかったな!」
と笑いながら三男の私に言う長兄は無邪気が過ぎる人だった。
昭和51(1976)年に須磨区高倉台に移り住み、その後の約40年間を過ごす。
その間3人の息子を育て、社長夫人としても内助の功を果たす。
三男が社会に出てからは年に数回夫婦で旅行に行く等ようやく家事のみの生活から解放された。
しかしそれも数年で終わりを告げ、誠一の右足に前立腺がんの胸椎転移による麻痺が出る。
外出が億劫になる誠一は自宅に籠もる生活になり、はるみの手を煩わせた。
そんな平成16(2004)年5月2日長男の伸也が急死する。
その後軽い脳梗塞や肺炎を起こし度々入院した誠一を献身的に看病し、平成21(2009)年2月9日に自宅でたった一人で看取る。
その年の秋には孫を、4年後には次男の哲也を失うも、常に気丈に振る舞い取り乱すことは一切なかった。
未亡人となったはるみは旧知の友人との時間と、孫たちの成長を見ることだけを楽しみにしていた。
平成27(2015)年の春に肺気腫で入院し、3ヶ月後の7月24日多くの人が待つあっちへ逝った。
人のおかんの話なんかどうでもええわと思われるだろうけど、自伝を書く人でもなかったので、書いておかないとあの人が生きた証って残せないんじゃないかと思って書いてみた。
もちろんこんなに短くまとめても残っているうちには入らないと思うが、書かないでおくことはできなかった。
多くの家族を失って一番辛く思うことは、人が一人死んでも世の中は普通に動き続けるということ。
あんなに大切な人がこの世からいなくなったのに、何事もなかったかのように時間は流れ、人は生活していく。
当たり前のことであることは分かっているが辛い。
本当は先月5日の四十九日の翌日は大雨で、当日はさわやかな日だったこともおふくろの力によるものだという非科学的な話。
先日社町の山本家の墓に報告に行った時に偶然会ったおふくろのいとこに事情を説明した際、「はるみちゃんらしい最後やね」と言われたこと。
僕が知るおふくろの素晴らしいところをいっぱい書きたいねんけど、ええ歳こいてマザコン丸出しにするのもなんだし・・・。
あ、もうおらへんから元マザコンか。
通夜の前の晩、おふくろと二人になった。
おふくろの亡骸の横で一晩を過ごした。
おふくろの顔を何度も撫でた。
物心ついてからおふくろの顔を初めて触った。
おふくろに何度も礼を言った。
何度も謝った。
何について謝ったのかは知らないが何度も謝った。
その何倍も礼を言った。
「俺が言うとは思えないセリフ、陳腐過ぎる言い回しやけど、俺、ほんまにあなたの息子で良かったと思ってるわ。自慢の息子ではないことは知ってるけど、俺はあなたの息子であることを誇りに思ってるで。」
と実際に声に出してしまった。
ほんまに声に出した。
こんなセリフ生きている人が周りにいたら言われへん。
泣き崩れることはあまりできなかったけど、ほんまにこんなに悲しいことはなかったんや。
こんなに悲しいことはなかった。
僕はめちゃくちゃ悲しかったんやで。
何か言うて欲しい訳じゃないけど、おらんのはやっぱり寂しい。
忘れることで人間は生きていけるかもしれない。
でも忘れたくないこともある。
自分がその人を忘れることが怖いのではなく、身近な人が亡くなって最も悲しいことは、その人が周りから忘れられ何事もなかったように時間が過ぎていくこと。
僕はこの11年間ずっとそう思っている。
どうして乗り越えた?って聞かれても、乗り越えた記憶もない。
誠一の葬儀での会葬御礼で、はるみが「子煩悩な人でした」と言った時、全くピンとこなかったが、先日実家で見つかったこれを見て納得した。
確かに子煩悩な人だった。
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おふくろも。
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四十九日では僕を見守ってくれていたおふくろの長男と孫も一緒に納骨した。
一つの区切りがついた。
この世では4人家族になってから2年半で僕が生まれて5人になったが、あの世ではもっと先にしなければ。
たくさんの土産話を持って再会せねば。
僕は一度もおふくろを嫌いになったことがない。
思春期・反抗期に「ばばぁ」とか「うるさいんじゃ!」とか言ったことはあると思うけど。
大人になってからももし痴呆が進んでしまったり、介護が大変な生活になってしまっていたら、そのことに疲れおふくろのことを嫌いになる瞬間があったかもしれない。
そしてその自分に対して嫌悪感、罪悪感を持ち続けたに違いない。
そんなことあの人は僕にはさせなかった。
そんな気持ちをあの人は僕には持たせなかった。
僕はおふくろを一瞬たりとも嫌いになったことがない。
僕はほんの一瞬たりともおふくろを嫌いになったことがない。
少し時間ができたので、久しぶりに垂れ流してやった。
失礼。