20090209-20090211

親父が死んだ。今週月曜日の午後9時45分。自宅でおふくろだけに看取られて。
私はその時三宮で飲んでいた。実家に立ち寄ることも考えていたので、もしかしたら死に目に会えていたかもしれないが、前日の夜に爪を切ってしまったため会えなかった。
仕事では5年ほど前に一線を退いていたので特に大きく変わることなく今日も日々の仕事は続いている。でも今日も日々の仕事を続けさせてもらえているのは間違いなく親父のお陰だ。じいさんでなければ会社は興せなかっただろう。でも親父でなければ会社を育て守ることはできなかった。
会社での「武部」は私一人になってしまった。しかし何年も前から武部商店的な部分は消えていたので、心細さも何もない。頼りになる社員、信頼できる協力会社、愛してくださるお客様に恵まれ私は本当に幸せな社長だと思う。
一昨日の通夜、昨日の葬儀の間ずっとそのことを感じっぱなしだった。武部健也の人生だけは誰にも譲りたくないと思っている。そう思わせてくれた親父には本当に心から感謝している。
親父は11年前、前立腺ガンの胸椎転移により右足が麻痺した。それはそれほど重いものではなかったが、次第に外出しなくなりこの2年くらいは自宅でおふくろの介護を受ける日々になってしまった。おふくろは昔看護師をしていたこともあり、入浴に至るまでほぼ全てのことを一人でやり遂げた。ごくたまに私に愚痴をこぼすことがあったが、小さな体でやり遂げた。痴呆が進んでしまった親父からは感謝の言葉どころか罵る言葉、腕には無数の傷、大きく曲げられたメガネ、夜通し大きな声で喚かれて眠れぬ日々、手元にあるものを投げつけられ、食物は床に捨てられる。そんな目に遭いながらもやり遂げた。
2月9日の夜、おふくろは呼吸が停止した親父を必死で蘇生させようと頑張ったらしい。力を使いすぎて2時間経っても手が震えていた。肋骨を折ってしまったかもしれないとも言っていた。おふくろは必死で親父を生き返らせようとした。医師が来て宣告されるまで必死で生き返らせようとした。
親父はええかっこしいだったがその死に顔は決して凛々しく格好のいいものではなかった。しかし、口を半開きにし子どもの寝顔のように力が抜けて幸せそうに安心しきったそれは、紛れもなくおふくろの作品だった。見とれてしまった。いつまでも私の記憶に残り続ける最高傑作だった。

コメント

  1. 谷村勇一 より:

    ダンディーな、お父さんのイメージが強く残っています。
    ただ阪神タイガースのことになると人が変っていたような記憶が…。
    謹んでお悔やみ申し上げます。

  2. kenbo より:

    ありがとうございます。
    本当にずっと熱狂的な阪神ファンでした。
    仕事・家族・新聞・推理小説・酒・煙草・阪神タイガースを愛した男でした。
    私はまだまだ余裕がなく仕事と酒くらいですが、少しずつ幅を広げていきたいと思います。今後ともよろしくお願いいたします。

  3. かよちゃんファン より:

    心からお悔やみ申し上げます。
    遠い記憶ではありますが存在感のある親父様だったのを覚えております。いつまでも心配を掛けることなのないよう、残されたお母様を大事にして下さい。

  4. kenbo より:

    おおきに。本当にそうします。
    会社を守ること、おふくろを守ることが親父との約束ですから。

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